このブログ記事の元ネタになっているのはシンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するときという書籍です。
機械と融合し死ななくなる未来の人類
著者のカーツワイル氏によると将来的には人間は機械と融合し、見た目も自在に変えることができ、老いとは無縁の存在となるそう。
しかもテクノロジーの進化は指数関数的に速度を増すので、今バカげた世迷い言のように感じられる突飛な話も、自分の老年期か、遅くとも子どもや孫の世代には実現できるようです。
(光の速度を超える等諸々の条件はありますが)
ここで僕思ったんです。
人間が死ねない世界では子どもを作ることも自由ではなくなりますよね。
今この瞬間も世界のどこかで誰かが死に、その反対側で生まれる。
徐々に世界の人口は増えてはいるけれど、それでも減るというサイクルが残されているから自然に任せている。
けれどテクノロジーが進み切った先、死ぬことがなくなった世代というのは『最終人類』ということになります。
僕はこれをスポーツチームの選抜メンバーのように感じるんです。
最終的に死を超越するという点を達成した時に生きている人たちで人類の数量は固定化される。
死ぬことが選択性になるわけです。
基本的には死を選ぶこと自体は珍しいだろうから人は減らない。
ということは限りある資源を考えれば、人が愛の営みゆえに子どもを設けることは人類にとっての弊害になってしまうはず。
いわば自然破壊に繋がる公害と同じ扱いになります。
様々な国同士の取り決めとして、地球という同じインフラを壊すのだけはやめておきましょうというのが条約。
そんなわけで人が基本的には死ななくなった時点で子どもを作ることは許可制になるでしょうね。
欠員が出た(突発的な事故による修復不可能な死、選択的自殺など)場合にのみ、公募のような形で世界中のカップルから応募を募って、抽選で『繁殖権』などが与えられるかもしれない。
死ななくなったヒトが、生まれた子どもに対して自分のような不死を望まないわけもないので人類の不死化は止めどなく進み完了します。
未来では機械を生産するように人類は人類を生産する
数世代を待たずして人類の繁殖方法は機械的に人類全体の遺伝子を混ぜ合わせたプールからナノロボットが選択的に超越人類を生み出していくのかもしれない。
人類の繁栄という観点からしてみれば大いにアリなんでしょうね。
ナノロボットによる超越人類であれば幼少期は必要がないので恐らく最初から成人が生み出されるだろうし、親ー子の概念すらなくなります。
家族というものを形成する必要がなくなり、結果『愛』という結びつきのための機能すら要らなくなる。
そうなってくればもはや人類はもう一つの点、『個体として存在することの意味』すら無くなり個であり全、全体が実は個であるような状態にならざるを得なくなるはずです。
人類の未来に訪れる『通過点』を超えたらもう誰も抗えない
ブッとんだように聞こえるかもしれませんが、もう現実にみんなやってますよね。
クラウド空間にデータを保存して、必要な時に必要な場所で違う端末でアクセスして同じ作業環境を再現する。
あんなものアカウントという壁で隔てられてるだけで、全部同じところに同じようなものが収められてるわけです。
スマホやタブレット、パソコンでやっているこんな便利なものを、次は人類そのものの記憶や知識に応用しない理由もない。
自分のプライベートな写真を平気で公共のスペースに保存しているんですから。
人類全体の知恵、スキルを一つのサーバーに収めておき、そこにアクセスすることで個体が学習する仕組みにしてしまう。
個体がそれぞれの場所で収集したデータを共有し、バックアップをとり、別の場所で違う個体がダウンロードする。
僕らがSNSでやっている『いいね』や『シェア』をもっと飛躍させて、あたかも自分が感じたことのようにリアルタイムでお互いに同期できるようにしてしまうんです。
こうやって聞くとちょっと気持ちが悪い感じがするかもしれないですね。
ではこれだったらどうでしょう?
携帯でもなんでもそうだったじゃないですか。
都合の悪いことは楽しいことの仮面を被ってやってくる。
自分の居場所や、どこで何をしていたかなんて18~19世紀の人間からしてみたら死んでも人に知られたくないような情報が今や他人に筒抜けです。
むしろみんなこぞって我先にと自分の一挙手一投足を飾り立てて見せびらかしてる。
いつからそんなことするようになりましたか?
気が付いたら始めていた?
違いますよね、始めさせられていたんです。
20世紀のマスコミによって大衆を扇動する卓越した技術はすでに整っています。
自由意志なんて存在しないわけです。
僕たちが今思っていることはどこかで誰かがそう考えるように仕向けた結果です。
こういった個体としての強靭さ、繁殖の効率化、共通意識なんかが『通過点』を超えた未来の人類の姿になっていきます。
それに気づいてさらに激しく嫌悪して、抵抗運動に出る人も少なからずいるはずです。
不死と引き換えに、愛や家族というシステムすら取り上げられて新しい生命体に移り変わっていくなんてまっぴらごめんという人は過渡期にはたくさん出てくるでしょう。
そういった人はフリーエコノミー(無銭経済)やアナキスト(無政府主義者)のように抵抗を続けるでしょうが、それも巨象にアリの群れが戦いを挑むようなもの。
気がついたら昼が夕暮れに変わり、夜になるように、見た目には動いていないように感じるが、激しい速度でものごとは変わっていきます。
人は不死の甘い蜜には抗えない。
どんなに強く思想に傾倒していようが、実際に自分の目の前に『死』が置かれれば
一人、また一人と超越人類への踏み絵を踏むはずです。
未来の人類の定員は最終的に1人になる
僕はたぶん死ぬ方の人類で、僕の子供たちはもしかしたら死なない方の人類かもしれないです。
孫はほぼ確実に死なない方の人類で、その先は全人類抽選方式になるからたぶんいないでしょうね。
最初は70億人かそこらで固定化されたメンバーは、ある時を境に1人になる。
死ななくなり、こぞって体験を共有したがる群れの『心』というものはテクノロジーによって一つに集約した方が都合がいいでしょうからね。
僕のこんなぶっ飛んだ解釈が鼻くそに見えるぐらい著者カーツワイル氏の主張はもっと先を行きます。
特異点の到来後、人間の脳という生物学的な起源をもつ知能と、人間が発明したテクノロジーという起源を持つ知能が、宇宙の中にある物質とエネルギーに飽和するようになる。
(中略)地球という起源を離れ宇宙へ、外へと向かうことで、この段階に達する。
引用元:シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき
P531
どうやら素敵な宇宙の旅には宇宙船も宇宙服もいらないよう。
コンピューターの黎明期から開発に携わり、常に周りの理解を超越した未来を予想するレイ・カーツワイル氏のこの本は人類の未来・AIフェチにはおすすめの一冊です。