「今から始めても身につかないのでは?」
そう思って新しい勉強を始めることに二の足踏んでしまう人って結構多いみたいですね。
???ちょっと意味わかんないです。
勉強を始めるのに遅いも早いもないですし、
もっと言えば
老後は勉強なんてしなくていいと思い込んでること自体がヤバイですよ。
老後の趣味として勉強がますます最適になっていく背景
人類の進化というのは加速度的に伸びてきていることは『シンギュラリティは近い[エッセンス版] 人類が生命を超越するとき』でも語られていることです。
人類の進化の最先端をいくような分野に限らずとも、街場の私たちの実生活でも
ひたすら暗記を繰り返して、なみなみと注がれたコップの水をこぼさないように、固定化された知識を蓄えておく
すなわち、『知識が身についた状態』。
このことにはもはやあまり意味がないです。
なぜならスマホの普及で細かい数字やデータなどの固定化された情報はその場ですぐに調べられるからです。
それよりも今求められているものは
劇的に変わっていく世の中の答えのないものに対して、どんな情報を組み合わせて根拠とし、仮の答えとして自分の行動に反映させられるか、周りに影響を与えられるか。
これが大事になってきます。
ここまで勉強すれば、それ以降は勉強なんてしなくていいというようなゴールがなくなりつつあるんです。
昨今の『大人の学び直しブーム』も、そういった時代の流れの早さに取り残される焦りみたいなものを、それぞれが無意識的に感じ取っているからかもしれません。
得た経験や知識が手の中でみるみると古くなり、役に立たなくなるなんて辛いですよね。
でもそういったパラダイムシフトを人類は前にも経験したことがあります。
趣味としてでも老後は勉強をしていないと若者からは尊敬されない理由
一人の人間がたくさんの知識をストックしておくことにもはや何の意味もない。
以前にも人類はそれを経験していて、文字が生まれ、記録媒体が進化して、いくごとに年長者の価値は目減りしていきました。
生きるための知識や、自分たちのルーツなどの情報が全て口伝として伝えられていた頃、老人たちには『検索エンジン』としての機能が任されていました。
- こんな時はどうしたらいい?
- 我々はどこから来たのか?
そんな問いの答えを探ろうとすれば、自ら答えを出すか、唯一のアーカイブである老人の知識を辿るしか方法がなかったわけです。
しかし人は『文字』を発明したことで、生身の老人たちを介さずとも、知識を得ることができるようになってしまいました。
さらに記憶媒体を石や木から紙に進化させ、『印刷』という手段を発明し、デジタルに置き換え、電波に乗せて情報を運べるようにしたことで
情報へのアクセスに物理的なタイムラグすらなくなってしまったんです。
今や知りたい情報は知りたい時に知りたい場所で即座に調べることができる。
アレもコレも体力勝負で覚えておく必要がなくなってしまった、ということです。
むしろ、世界中の情報の量は人一人が覚えきれる量をはるかに超えてしまったので全てを覚えておくことは不可能です。
全て覚えていると思っているとしたらそれは、『昔はそれで全部だった』情報です。
今の20代ぐらいの子の感覚では「何で覚えておかなきゃいけないの?」っていうのが正直なところ。
『スマホで調べりゃいい』んです。
老後の趣味なんてレベルじゃないほど勉強している武田鉄矢のヤバさ
資格勉強にしろ、専門的技術にしろ、語学のための知識にしろ、
固定化された大量の知識を暗記することに意味がなくなるとしたら
私たちが中年期~老年期に向けて学ぶ意味とは何でしょう?
ところで、金八先生でお馴染みの武田鉄矢さんをご存知でしょうか?
彼は1994年より続く『今日の三枚おろし』というラジオ番組を今も続けています。
このラジオ番組では武田鉄矢さんがその時に自分が興味のあるテーマに関する本の書評をアシスタントの女子アナに向かって延々と語り続けるという………
なんかもう…、
ある意味で『プレイ』とも言える内容です。
その時の鉄也の(笑)テンションのまぁ高いこと高いこと。
難解な講釈にほとほと困り果てる女子アナに対して
「わかんねぇか?わかんんねぇよな?俺も何言ってるかわかんね!ええぃ!」
などという姿勢で喋り倒します。
これですよ。これ。
固定化された知識を修了することで『人生における安定』を求めることはもはや時代遅れです。
しかし
あるテーマに対して常にホットな情報を更新し続けていることは『専門家』としての価値を保ち続けます。
武田鉄矢、あの人は自分が『まだ知らない』ということを自分でわかっています。
しかし自分自身がもつ独自の『テーマ』を無我夢中で追いかけることで結果的に専門家レベルの旬な情報や、自分なりの意見を更新し続けています。
固定化された知識に意味がないのであれば、学び続けるしかないんです。
知りたくて知りたくてたまらないから読む、知る、書く、考える。
そこに周りからの
「あの人はよく知っている」
「頼れる人だ」
「このことはあの人が詳しいから任せよう」
という評価、『本当の専門性』が生まれてくるんです。
老後の趣味で大切なコト「二兎を追う者は一兎をも得ず」
自分は何のテーマを追い続けることができるだろう?
それがこれからの大人の勉強に必要な視点です。
アレもコレも手を出したところで、夢中になっている間は良くても、そこから離れている間に知識はどんどん古くなり、忘れていきます。
自分がずっと追い続けたい、更新し続けたいテーマを持ちましょう。
そうなるとあまりたくさんのことを一度に勉強することは難しいですが、決まったカリュキュラムをひたすらこなしていくことにもあまり意味はなさそうです。
大人は時間割りも自分で決めていいんです。
スイッチが入ってしまうとついつい喋り倒してしまうテーマは何ですか?
ぜひそのテーマで自分の勉強の時間割りを埋めてみてください。
そのワクワクを続けていった結果、知識は勝手に身についているでしょう。
老後の趣味としての学びを続けると必ず起きる後悔
勉強するということは答えを探すと同時に、また新たな問いに出会うということです。
そうであるなら我々は
本を一冊読む度に
新しい気づきを一つ得る度に
世界を新たに知る度に
「もっと」という欲求を抱えることになります。
以前の自分を一つ一つ越えていく感覚、それはまさに成長。
人は永久に成長することができる、
永久に成長することができるという実感を得られるんです。
しかしそれは錯覚です。
人には『死』というタイムリミットが必ず訪れる。
勉強し続けてしまうと、そんな死の瞬間にまで『もっと』を持ち越してしまう。
100%満足して死ぬことができなくなってしまうのではないでしょうか?
僕はまだ死んだことが無いので憶測でしか無いのですが、たぶん「アレをもっとやりたいのに~」と思って死ぬことになるでしょう。
自分だけのテーマを持って勉強し続けるということはそういった側面も多分に含んでいます。
勉強を楽しむことでこの世への執着を増やしてしまうだなんて、因果なもんです。